80年前、インドネシアで終戦を迎えた三重県松阪市の岡田晃三さん(99)は現地で捕虜となり、地獄を味わった。復員してがむしゃらに働き、同県多気町の梱包(こんぽう)資材販売会社「岡田パッケージ」の社長などを歴任。来年1月に100歳を迎える岡田さんは今、改めて「戦争はやるべきではない」と訴える。
「戦争は国と国が戦うもので、1人では始められない。個人が平和のためにできること。それは戦争を好む為政者を選んではいけないということです」。岡田さんに若者へのメッセージを求めると、よどみなくこう答えた。
1926(大正15)年、旧美杉村八知(現在の津市)に生まれた。41年に太平洋戦争が始まると授業は軍事教練へと変わった。43年、興亜専門学校(現在の亜細亜大)に入学。マレー語を専攻し、インドネシア人から授業を受けた。
日常会話程度の語学力がつくと、通訳や治安維持を任務とする海軍の特務機関「花機関」への入隊が決まった。
44年正月、戦地へ赴く前に実家へ戻ると、死ぬことが名誉だと信じていた岡田さんに、両親は「生きて帰ってこい」と告げた。広島で陸軍少尉だった兄からは「命を大事にしろ」と言われた。
2月11日、門司港(福岡県)を出発。昭南島(シンガポール)で訓練を受けた後、派遣先がインドネシアのセレベス島(スラウェシ島)に決まった。
主要都市メナド(マナド)から西に約400キロ離れた勤務地の「トリトリ」という地区に入ったのは6月。船も通わない場所で、給料の支払いもない代わりに指令も届かなかった。戦闘もなく、現地の人にバナナやパイナップルをもらって過ごす日々。まるで天国だった。
だが、終戦を迎えると一転、地獄が始まった。メナドに戻ると「刑務所」に連れて行かれ、下着のまま板敷きの部屋に押し込まれた。座らされ、少しでも動くと「姿勢が悪い」といってむちで手をたたかれた。夜は拷問を受ける仲間たちの悲鳴が響き、おびえながら過ごした。食事は、朝が湯、昼はおかゆ、夜は青菜の乗った飯。もみ殻が付いたままだったが、食事が出るだけましだった。
2カ月後には捕虜収容所へ移送。日本が来るまでインドネシアを植民地にしていたオランダの兵隊による扱いは手荒で、帰国までの約10カ月間、意味もなく丸太を運ばされ、現地人のし尿処理をさせられた。
美杉に戻ったのは46年6月19日。厳しかった父が涙を流して復員を喜んでくれたことを覚えている。
だが、復員後も敗戦国の厳しい現実が待っていた。約5年間は働く場所もなく、職を転々とした。ようやく26歳の時に結婚し、養子として岡田パッケージの前身である松阪市の岡田製箱所で働き始めた。
昼も夜もなく働いたおかげで会社は成長。90年には社長に就いた。事業を切り回すようになって出張が増え、海外渡航は生涯で107回。それでも「初めての海外」となったインドネシアでの体験の記憶が消えることはない。
だからこそ強く「平和」を祈っている。取材中、岡田さんは何度も繰り返した。「戦争を二度と繰り返してはならない。戦争を好む為政者を選んではいけない」【下村恵美】
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